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名古屋洋服商工協同組合

 

初めての同業組合は明治19年に発足

 
 洋服はいまではごく当たり前に着られていますが、明治の初めごろは、「舶来服」と呼ばれ、決して一般的な衣服ではありませんでした。最初は官吏、軍人、郵便配達の制服として使われる程度で、洋服を着用する人は限られていました。しかも名古屋は東京や大阪に比べ「文明開化」の歩みが少し遅れたとされています。そんな中で洋服仕立てを始めたのは、和服仕立屋、足袋屋、旗幟屋などであったようです。
 名古屋で洋服業者が初めて作った同業組合は明治19年で「和洋仕立物職組合」でした。針供養といえば現在では和服の関係者による行事と思われていますが、若宮八幡宮での針供養を最初に行ったのは「和洋仕立物職組合」だったのです。そして、大正2年、同組合から洋服と和裁がそれぞれ分離独立し、大正8年に「名古屋洋服商工組合」が結成されます。
 

「一等職人」と呼ばれた洋服仕立職

 
 名古屋で最初に洋服仕立職を始めた人の多くは、東京や大阪へ出かけて修行を積んだ人たちでした。東京や大阪へ出かけなければならなかったのは、名古屋には外国との交流の中心となる港が整備されていなかったことも、大きく影響していたようです。しかし、一度洋服仕立ての技術が入り込むと、業界は大きく成長を始めます。明治から大正にかけて、洋服仕立職の賃金は他の職に比べて高く「一等職人」と呼ばれていました。指ヌキとハサミという道具さえあれば、あとは腕だけが勝負のまさに職人の世界であったため、全国を渡り歩く「渡り職人」もたくさんいたようです。
 洋服は文明開化を象徴していました。洋服を着用することによって、それまでの生活スタイルまでも大きく変える可能性があるからです。ところが、技術を身につけるには、古くからの徒弟制度がそのまま残されていました。それでも組合が結成されたときの業務は、工賃表の作成、店員徒弟の勤続表彰、親睦のための運動会開催、さらに技術講習会開催など、近代的な側面も多分に持ち合わせていました。
 
文明開化以来の技術を守るため重衣料を応用した軽衣料の研究も
 

技術を守りながら軽衣料への進出も

 
 昭和になると多くの人がサラリーマンとなり、洋服も一般的な衣服となっていきます。しかし、太平洋戦争が始まると、物資は不足し、配給統制が強化されていきます。男性は国民服の着用が義務づけられ、洋服業界も空白の時を過ごさざるをえなくなります。
 現在の組合が復活したのは昭和28年でした。翌年には「中部日本洋服新聞」(月刊)を発行するなど、目覚ましい活動を再開します。技術講習会、技術コンテスト、ファッションショーなども行ってきました。
 しかし、現在ではいわゆる個性化、低価格品の攻勢などによって、高価な注文服の需要は減退しています。今後、背広離れが進んでいくことも予測されます。組合としてはテーラーの技術が途絶えないよう、明治以来培ってきた重衣料の技術を維持しながら、軽衣料の分野への進出も図りたいと考えています。
 

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