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組合としての歴史は、明治19年3月に設立された「和洋仕立物職組合」にまで遡ります。その後、和洋裁の組合から独立する形で名古屋和服裁縫業組合が設立されました。明治政府は様々な面で西洋化を進め、洋服も積極的に取り入れていきました。洋服の仕立ては、最初は和裁に従事していた人が兼務していたと思われます。そうした中から和裁の組合ができたということは、洋服の仕立てがかなり専門化され、一般にも広がってきたからのようです。
名古屋和服裁縫業組合が愛知県の認可を受けたのは大正3年です。明治44年3月に日本最初の労働立法である「工場法」が公布されましたが、そうした社会の動きとも関係して役所からの指導があったと思われます。当時の組合は、粗製濫造を矯正し、品質の高い着物を作るとか、徒弟の指導・育成、あるいは研究会・競技会の開催などを目的として活動していたようです。そうした点では、技能の継承と育成という現在と同じような活動が主でした。
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多くの職業が材料を仕入れ、加工して販売するのに対し、和裁の仕事は、技術のみで仕事を請け負います。百貨店や呉服店から反物を預かり、着物に仕立てて納めます。分業ということもありません。一人でも仕事が請けられるのですが、それだけに賃金面などの交渉を行うにも、組合は大きな役割を果たしてきたと思われます。名古屋の大手百貨店は、大正の末ごろに着物の研究機関を作り、さらに専門の職人を養成する裁縫部に改編し、専門学校へと発展させています。そこから育った人はかなりの人数にのぼっているようです。そうした経緯を考えると、一人でもできる仕事とはいっても、職人同士の横のつながりには深いものがあります。
かつては普段に着る着物を縫うことは女性の常識とされていました。そこで和裁士が仕立てるのは、高級な着物や特殊なものに限られました。しかし昭和10年代になると徐々に戦時体制が強化され、高級な着物は贅沢品として需要が減り、材料となる物資も国に統制されていきます。組合の活動は主に配給物資の調達に比重が移っていきました。 |
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日本の衣の歴史を一針一針縫込み未来へ受け継ぐ |
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戦後になり、組合の再建が図られ、昭和24年に愛知県和裁教授連盟が設立され、技術指導や裁縫道具の共同購入などが行われるようになります。翌年には名古屋和裁協会が91名の加入者によって設立され、28年に設立された社団法人日本和裁士会の愛知県支部へと発展しました。
その後、組合が通産局の認可団体に改組されたのは昭和55年4月です。当時の組合員数は346名と現在より15%ほど多い人数でした。最近、着物の需要は減少しています。日本の長い着物の歴史の中で、すでに失われた技術もあります。組合としては、文化としての和裁技術の継承のため、これからも活動をしていきます。 |
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