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日本の建築物といえば木が当たり前のように思われています。しかし、国会議事堂をはじめ、日本にも数多くの石造建築物が見られます。もっとも、そうした石造建築物は、ほとんどが明治以降に欧米から伝えられた技術で作られたものです。
ところが、明治以前の日本にも優れた石造の技術がありました。その代表としてよく知られているのが、城の石垣です。美しい曲線を描きながら、非常に重い天守閣をしっかりと支え、しかも容易に人が登ることのできないように上へいくほど急勾配となっています。他にも、石で作られた太鼓橋、石段、神社の鳥居、常夜灯など、いまでも多くの石造物が見られます。さらには餅つきやお茶をひく臼など、石で作られているものはたくさんあります。
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名古屋石材工業協同組合が扱っているのは、建築石材と墓碑。それぞれの比率はほぼ半々です。つまり、もともと石に関するものであれば、どんな需要にも応えていたのです。もちろん、現在でも注文さえあれば、ほとんどのものを作ることが可能です。
石屋さんと呼ばれる職業は、どんな仕事をしていたのでしょうか。昔は石を扱う建築現場から現場へと泊まり込みながら仕事をしていたのが、やがて街道筋などに店を構えるようになったとされています。このことから、一つの想像が湧いてきます。石を穿(うが)ち、正確に組み立てるには、かなりの技術が必要です。そこでかつては、武将とともに、戦地から戦地へと渡り歩いていたのではないかということです。戦国の世にあっては、砦(とりで)を築いたり、橋を架けるなど、一種の工作隊として活躍していたのではないのかと思われます。日本にはかつて、鉄砲の名人であった紀州の雑賀党や、船を操るのにたけた知多半島の千賀党といった集団がいました。千賀氏は後に尾張徳川家の船奉行となっています。
しかし、戦国の世も終わり、時代が平和になるとともに、「石屋」の活躍できる場が限られてきます。石の工作物や建築物は木に比べればそれほど多くはありません。だから、墓碑をはじめ、石に関することなら何でもできる技術を習得していったのではないのでしょうか。
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石の加工のことなら、どんな需要にも対応 |
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組合が結成されたのは、職業としての歴史が古い割には比較的最近といってもいいかもしれません。昭和20年代に名古屋石工事組合が作られ、そして昭和60年に現在の名古屋石材工業協同組合が設立されました。市営の墓地などで墓碑の仕事を受注するのには、組合組織があった方が有利だと判断されたからでした。建築関係では、個人住宅の仕事が減少しています。墓碑に関しても外国から安い製品が輸入され、文字を彫るのと据え付けることが中心となっています。このままでは、長い歴史の中で培われてきた石屋の技術がすたれてしまうかもしれません。
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