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名古屋木工挽物工業協同組合

 

発祥は滋賀県の愛知川上流

 
 木工挽物(ひきもの)というのは、もともと「木地師」とか「轆轤(ろ く ろ)師」と呼ばれていた人たちが作り出す木製品のことを指しています。木工品そのものは非常に古くから作られていましたが、轆轤を使って木工品づくり、つまり木地師の発祥は今から1100年程前だといわれています。当時の日本は藤原氏が勢力を誇っていました。文徳天皇の第一皇子であった惟喬(これたか)親王は皇位継承に破れ、現在の滋賀県愛知川上流の山中に居を移します。そこで、村人たちに轆轤を使った碗づくりを教えたとされています。
 やがて轆轤の技術をもった人々は全国へと散在します。しかも自由に全国の山々を渡り歩けるよう、滋賀県にある筒井神社が鑑札を出しました。しかし、明治の新政府となってからは、自由に山々を渡り歩くことができなくなり、山を下りて定住することになります。そのため、日本全国の木地師のもとを辿れば、滋賀県にたどり着くといわれています。
 

名古屋では昭和に入ってから創業

 
 木工挽物自体は非常に古くからある職業ですが、名古屋での木工挽物業の創業は明治以降です。木工挽物業の歴史から考えると、業として創業されたのは明治以降というのは当然かもしれませんが、その多くは昭和になってからの創業となっています。
 惟喬親王を祖とし、筒井神社が発行する鑑札によって行動の自由が保証されていた木地師ですから、当然、仲間同士の結束には固いものがありました。それは、いまでいう一種の組合的な働きをしていたものと思われます。
 ところが、名古屋木工挽物工業協同組合が設立されたのは、昭和22年です。当時の組合加盟企業が何軒であったのかははっきりしていませんが、昭和57年には30軒を数えています。しかし、現在では10軒にまで減少しています。
 
自在に轆轤をあやつり複雑な形状の品を製作
 

機械化できない多品種少量品

 
 木地師、轆轤師というと、碗、こけし、盆といった製品が連想されますが、実際には階段の手すり、家具の取っ手、橋の欄干を飾る擬宝珠(ぎぼし)、仏具、玩具など多岐にわたっています。
 木工挽物関係の商品は、いまでは機械で量産できるものもありますが、最初の試作品だけは、どうしても手づくりでモデルを作らなければなりません。また、仏具関係は、規格化されたものがなく、注文されたものはすべてサイズも形も微妙に異なっています。そのため、機械化が不可能なものも多いのです。
 木製品に対する人気の高まりと業者の減少で、需要は減ってはいるものの、皮肉にも経営は安定していますが、この業種でも後継者不足は深刻です。現在、後継者がいるのはわずか2軒のみとなっています。このまま業者の減少が続くと、将来は、木工挽物製品が消えていく可能性もあり、組合としても対応を迫られています。
 

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